ひきこもりへの道のり
現在40歳の男性、会社員の体験です。
25歳から2年間は、本格的なひきこもり生活でした。
ひきこもった直後の家族構成は、父・母・姉・兄(県外在住)・私の5人です。
高校卒業までは目立った問題行動はありませんでした。
大学入学を期に一人暮らしを始めましたが、気づかないうちに一人で過ごす時間が増えていきました。
授業への出席日数が減り、自室で1日中、ゲームをして過ごす日が増えていきました。
結局、1年間の留年を経て、卒業までは至りました。
就職は決まらずに、仕送りをもらいながら一人暮らしを続けることになりました。
この頃、友人との連絡を完全に断っていたと思います。
大学卒業から2年後には家族と会話もなく、実家の自室で本格的ひきこります。
①幼少時代
当時は祖父・祖母がいて、父・母・姉・兄・私の7人家族でした。
両親は共働きで、1歳位まではお守りさんに預けられていました。
その後、幼稚園に通うまで、両親が自宅にいない間は、祖母が世話をしてくれました。
②幼稚園(就学前1年間)・小学時代
同級生は5名です。
勉強もスポーツも割とできていて、異性にモテたので、周りから嫉妬されやすいタイプの子だったと思います。
体育で、お手本をみせる様言われました。
これが、周りの嫉妬を買い、それが嫌で、わざと失敗をして見せました。
しかし、危ない転び方をしてしまい、以来その恐怖心から、本当にできなくなりました。
同じ学校の悪いことをする子達に流されて、イジメの加害者になったこともありました。
このように周りに流されて、折角の長所を自らが押さえ込んで、悪いことであっても、やってしまうことがあったのです。
③中学時代
同級生は、50名程になりました。
夜尿症や性に関することでの悩みができ、友人との間で、そういう話になると、劣等感から誤魔化すようになりました。
この問題は、徐々に改善していったものの、22歳位まで解決しなかったと思います。
勉強やスポーツは、真面目に取り組んで、それなりの成果をだしていました。
コミュニケーションで、消極的な場面が、目立つようになり始めます。
親戚の人と話をするのが苦手でした。
④高校時代
同級生は、280名になりました。
中学時代、下校時や休日に友達と遊ぶことがなかったので、高校では憧れがありました。
外泊は増え・タバコを吸って親を怒らせ、麻雀やトランプで賭け事をしていました。
勉強を理由に、部活動をやりませんでした。
少しでも、偏差値の高い大学に行きたいという目標で、勉強はこつこつ続けていましたが、平均的な学力でした。
就職に有利で、将来性のある仕事に就ける位で、あまり考えずに進路を決めました。
話をする人はいません
⑤大学時代
1人暮らしを始めた頃は、毎日が自由で、
とても楽しかったです。
しかし、学校の授業には全く興味がもてず、学校にも段々と行かなくなりました。
生活のリズムも狂い始めます。
バイトや遊びにも無気力になっていきます。
「スチューデントアパシー」という、学生特有の病気だったと思います。
就活期を迎えても、単位が取れていない、模擬面接で自分のアピールができない、日常生活もまともに送れない状態(人前でご飯が食べられない・鉛筆を持つ手が震える)に、なっていました。
人に会いたくなくて、携帯電話にも出たくなくて、心配した友人や家族が、アパートに訪問してくれたことが、何度かありました。
大学は5年かけて卒業できましたが、就職には繋がりませんでした。
⑥社会人1年目
人付き合いのない日雇い派遣のアルバイトをしながら、コンピュータ関連の仕事に就く為の資格取得の勉強をしていました。
日雇い派遣は色々な業種がありました。
中には建築現場で重い鉄筋を高い所に運ぶ危険なものもありました。
1年が過ぎたあたりから、段々と、仕事にも行かなくなり、資格も取得できずに、実家に帰ることになっていきました。
⑦帰省してからの1年
家族が揃っている食卓で、「今まで、色々と心配をかけて、ゴメン!」と涙を流しながら謝りました。
親は「又、ゆっくりやり直していこうや」と、言ってくれました。
土日だけ、県外のパソコンスクールで勉強することを決めました。
それ以外はアルバイトはせずに、家で勉強するという生活を、8ヶ月位続けました。
パソコンスクールでも、話をする人は誰もいませんでした。
就職相談や、面接の練習からも逃げました。
地元でも友人付き合いは全くありません。
スクールへ行く高速バスで、偶然高校・大学時代の友人と鉢合わせします。
バスの中で話をし、その後も居酒屋で飲み、「父親の仕事を手伝い、お金を稼いでいる」と、嘘をついていました。
結局、就職につなげられず、次第に家族との関係も悪化していきます。
このころ、うまくできない自分・まわりと同じにできない自分を、責め続けていました。
やがて、我慢していたものが崩れ、諦めて、ひきこもるようになりました。
プライドはあった「ひきこもり中」
ひきこもり初めの頃は、家族から、「働きな」 「布団から出てこい」「ちゃんとしな」「ご飯、食べえ」等、
色々と言われましたが、無視していました。
人に顔を見られること、話をすることは、絶対にしたくありませんでした。
食事も時間をずらして摂っていました。
月に1回の訪問看護の方々とも、一切顔を合わせませんでした。
ひきこもり中にもプライドはありました。それは家族や社会に迷惑をかけたくないという思いからでした。
自分の使った食器や衣服は自分で洗うようにしていました。
洗剤など自然環境に悪そうな物もなるべく使わないようにしていました。
ひきこもり中、ニュースや新聞やインターネットで、世の中のことを、勉強するようにしていました。
自ら命を絶とうと考えたこともありますが、親や姉・兄が悲しむような気がして、実行には移すことはありませんでした。
外に出られる「きっかけ」
ひきこもり始めて2年が経った頃、体調を崩し、痛みに耐え切れず、親に病院へと付きそってもらいました。
その時、何故か『自分が情けない』と感じいり、ひきこもるのを止めたのです。
訪問看護の方に勧められ、フリースクール風月庵にお世話になることに決めました。
そこでは、自分と同じ様にひきこもり経験のある人達と一緒に活動しました。
話・スポーツ・芸術・料理・ゲーム・運転等の練習・ボランティア活動への参加・職業体験等、3年間色々なことを経験しました。
フリースクールでの活動を続けていく内に、通院と、投薬治療も必要と感じ、うつ症状と向き合いはじめました。
考え方も変わりました。
自分がひきこもりになったのは自分一人の責任だと思っていました。
しかし、心や発達の勉強をしていく内に、『人は遺伝と環境の影響を受けて育つ』と
いう事が解り、自分を必要以上に責め続けるのはよくないと、思うようになりました。
よい生き方に出会えた
30歳からは、仕事をしはじめました。
正直、社会に出ることは恐かったです。
が、自分の出来ることを探すために、色々挑戦しました。
社会に出ると、ひきこもりに理解がある人ばかりではありません。
しかし、何かしらの苦労や、悩みを抱えながら生きている人もいると、わかりました。
勇気づけられます。
仕事では、結果を求められます。
結果を出せなければ、怒られます。
が、出せば、評価もされます。
ただ私の場合、結果を出す為に、常に120%の力を使い、燃え尽きていきました。
仕事を続ける為には、業務を抱えすぎず、助け合える人間関係を活かし、余裕をもって業務にあたる大切さを知りました。
ひきこもりを経験したことで、自信と時間をなくしたことは事実だと思います。
しかし、ひきこもらなかったら、充実した人生を送れていたかと問われると、それは、疑問なのです。
他人の痛みに共感でき、ひきこもったからこそ、よい生き方に出会えたと思います。
仕事を始めてからも風月庵で出会った人に話を聞いてもらい、声をかけてもらうということがありました。
これからも人の繋がりを大切にしながら、自分に合った「働き方・生き方」を、見つけて
いこうと思っています。
*この話しは、プライバシーを守る観点から、いくつかの事例を合わせ、一般化した内容です。