ひきこもり体験談.4

誰一人私に気付くことなく
通り過ぎて行きました

亭主関白の父、おしゃべり好きの母

風月庵に理事として応援させてもらっているMKです。
わたしのひきこもりにまつわる話をします。
参考にしてください。

高校卒業後は東京の会計専門学校へ入学。
半年で退学し、徳島の短期大学へ。
大学卒業後は、仕事を転々とし、現在の仕事が一番長く勤めています。
その仕事を転々としている時に、数か月間の「ひきこもり生活」を経験しました。

家族は、両親と 姉と妹の三人兄弟です。

父親は、一言でいうと亭主関白です。
高校野球では有名なT監督のいる野球部へ入部する為に、I高校へ進学し、甲子園にも行ったそうです。
朝早くから仕事に行き、夜8時頃に帰って来ていました。

小さい頃は、父親からよく物を与えられてきたと思います。
だが、一方的で私が欲しい物、したいことを相談しても、父親の意にそぐわないことについては、返事もありませんでした。
話し合うことや、相談といった類のことは、今まで一度も無かった気がします。

母親は、専業主婦で内職をしていて、家に居ました。
何かと世話好きで、おしゃべりが好きな人。

父親が働きに出ると夜も遅く、学校から帰ると、母親と姉妹の女性ばかりの環境でした。
そのせいもあってか、どこかに連れて行ってもらった時に、よく女の子に間違われていたりしました。

小さい頃、週末や、長期の休みには、どこかに連れて行ってもらった覚えがあります。
ファミリーレストランへ、ステーキを食べに行き、地元や関西圏の遊園地に行った記憶。

でも、私は車に乗るとすぐに酔ってしまい、遊園地でも、乗り物に乗るとすぐに乗り物酔いをして、遊園地に行きたいとは思っていませんでした。

魚を捕り、ホタルを捕まえていた

汽車で二つ目の駅の町に母親側のおばあちゃんの家があります。
おばあちゃんの家は稲作、畑で野菜を作る農家で、家も大きく、庭も広かったです。

その農作業の手伝いをすることが面白く、幼稚園の頃から、一人で汽車に乗って、よく行っていました。

季節ごとの収穫に向けて、畑の手入れ、作物の世話、収穫と、田植えの準備に田植え、そして稲刈りをしていました。
時には川へ、泳ぎに行ったり、釣りに行ったりしていました。
夜になれば田んぼの水路に行って魚を捕り、川のほとりで蛍を捕まえたりしていました。

家では、小さい時は父親がキャッチボールをしてくれた記憶もあります。
小さい私に思いきり投げてくることがよくありました。

何でそんなに強く投げるんだろうと思っていました。
後になり、それは自分の威厳を保とうとしているのだろうと考えるようになりました。

ユニホームを、玄関に置いて帰りました

小学時代、同級生の多くは低学年時から野球部に入っていて、その野球部の監督は同級生の父親がしていました。

その同級生が誕生会をするのでと初めて誕生会に誘われ参加しました。
事前に近所の文具屋さんで文具セットを買い、用意していました。

来ていた子たちが、順番にプレゼントを渡し、自分がプレゼントを渡した時でした。
その母親に「こんなの持ってるし、もらってもな」と言われました。

その場では、何も聞いてなかったかのように笑い、やり過ごしました。
しかし、衝撃的な記憶として残っています。

それからは、誰の誕生日会にも行かずに、呼ばれもしなかった気がします。

私は父親の勧めもあり、小学4年の時に野球部へ入部しました。
身長が高かったのでポジションをファーストにと決められ、練習へ参加していました。

監督の息子であるその同級生はピッチャーで4番を任され、塾へ通い、成績もそれなりに優秀で、学期ごとに選任される級長にも、よくなっていました。

私は、塾には通っていませんでいたが成績はその同級生よりも良かったり、学期ごとの級長は、各学期で、その同級生と私ともう一人が交替でなっていました。

当人同士は割と仲は良かったと思います。

どれだけの期間練習に参加したのかは、
今では分かりません。
おじいちゃんが入院し、必要な物の買い出しをし、洗濯物の届け物をしてから練習に行っていたのですが、数日間、練習に参加しなかったことがありました。

暫くして練習に行くと、すぐさま監督に呼び出され、「お前の親が、この野球部に文句を言っている。どういうことな。」とグランドで練習中のみんなの前で、怒鳴られました。

私の父親は、学校行事にも参加せず、他の親との関わりもなかったので、小さいながらも、そんなことは絶対にないと思いながらも、言い返すことができず、そのまま帰り、もらっていたユニホームを監督の家に返しに行き、玄関に置いて帰りました。

それから野球には行かなくなりました。

笑って自分の気持ちを隠す術

その後、その母親から嫌がらせ(仲間外れ)を受けうようになりました。
その母親はPTAの会長であり他の親からも中心的な存在でした。

その母親とよく一緒にいる親からも「うちの子と遊ばんといてくれ」と言われ、運動会や卒業式で、集まって撮る写真にも呼ばれず、同級生に呼ばれて、行こうとしても「はい、はい」と除けられていました。

参観日には、授業が終わり、教室内で近づいてきて、「何で、あんたが点をとれるんか、わからん」「隣の子のを見たり、何かしよる」と、言われたこともありました。

中学では、高校進学に有利だということで生徒には必ず何かの部活に入ることとなっていたので、野球部には入らず、サッカー部に入りました。
勉強は、親たちから言われたことが頭からはなれず、頑張ってもよく言われないと思い、そこそこでやめるようになりました。

中学でも、その親たちから同じように色んな事をされ、言われてきましたが、親に相談したりすることはありませんでした。
そのころから、何を言われても、されても笑って自分の気持ちを隠す術を身に着けてきたように思います。

「普通科にしろ」と、一点張り

高校の進学は、そんな同級生の親との関わりがなくなるように、父親の希望する普通科への進学はせずに工業高校へ進学することにしました。

高校への進学は、中学三年の時から、希望高校の話しがあり、何度か父親に行く高校の希望は伝えていたのですが、テレビの方を向き、私が話しているのが聞こえていると思うのに、何の返事もありません。

話しが終わって、待っても返事が無いので、自分の部屋に帰って行くという、そんなことの繰り返しでした。

入試が近づき、最終の希望高校の受験申請をする日に、いつもなら(仕事に出て)家にいない父親が居て、「高校の受験は、どこにするんな」といきなり…切り出しました。

「今まで話した通り、工業高校に」と言いますと、「普通科にしろ」の一点張りでした。
「今更、替えられないし、その普通科には行きたくない」と答えても、「何で、仕事休んでまで、ここに居るのか分かっとんか」と、一方的に怒られるのでした。

登校時間も迫っていたので、後は、自分からは何も言わず学校へ行き、工業高校への進学をする手続きをしました。

何故だか、父親の言うことを聞く

高校卒業後の進学時にも、父親から香川県に新しくできた建築関係の大学へ進学しろと言われました。
高校を選ぶ時に、いろいろあったので、ここは父親の言う通りにと思ったのですが…。

昔は、町外の高校へ入る時は、地域から入学する基準点より高い点数を持って行かなくては入学できなかったのです。
いざ高校に入ってみると、何もしなくても上位にいられる環境で、3年間過ごしてきたのと、工業高校なので専門の科目は難しいが5教科についてはそこそこのレベルだった為、大学受験に失敗してしまいました。

当時の進学課の先生に一番厳しい専門学校とお願いし、会計の専門学校へ進学しました。

大阪の専門学校に合格しましたが、東京にいる母親の姉が同じ学校が東京に有るというおとで、そのおばさんの家で下宿しながら通う事となり、入学前から編入の手続きをして、東京生活が始まりました。

さすがに一番厳しいと言われるだけに、定期的に試験があり、その結果によって、進路が変わるクラスへと再編成されます。
土日の休みには2冊の問題集が宿題で、週明けに採点され、間違えたところは、その日の授業が終わった後に補習が行われていました。

高校卒業したての遠く離れた都会で、田舎の徳島弁バリバリのひきこもり気質の私にとって、友達を作ることもなく、環境になじもうとする気力もなかったので、ひたすら学校の勉強に打ち込み成績は上がる一方でした。

高校まで2,0あった視力は、前のホワイトボードの文字が見えなくなり、メガネ屋さんで計ると0,5まで下がっていました。
後期の授業料請求が来た時、丁度家に帰っていました。
その時父親から、「大学と言う名の付くところに行ってくれ」と言われ、前期が終了すると同時に退学届を出しました。

何故だか、父親の言うことを聞くように…。
そこから、受験勉強をしたのですが、数か月の受験勉強では大学には及ばず、短期大学には合格できたので、そこに通学することに決めました。
大学生活を始めたのですが、そのころ徳島駅に新しいビルが完成し、ホテル部門のオープニングメンバーのバイトに誘われ、バイト漬けの大学生活を送りました。

「それは自分やって同じやろ!」

短期大学を卒業する時、就職難の真只中、私は就職への意欲もなく、大学への編入を考えていて、就職活動はしていませんでした。
しかし編入試験を受けたものの、勉強も「そこそこ」の癖が直らず、編入は叶わなかったのです。

卒業前の編入不合格からの就活となってしまい、求人企業がほとんどない状態であり、ホテルのバイトを続けることとなりました。

バイトをしながら休みの日には、ハローワークへ通う生活が始まりました。
ハローワークではファイルにとじられた求人募集の用紙を一枚一枚見て、カウンターでやり取りする方式でした。
ハローワークの近隣企業を中心に求人情報を載せていたので、牟岐ハローワーク、阿南ハローワーク、徳島ハローワークと、各地を巡っていました。

当時は実家の前に倉庫にしていた家が有り、そこを片付け、一人で住んでいました。
食事とお風呂は実家に行っていました。
実家で夕飯を食べている時に、父親が帰ってきて就職先の話をしてくれたことが何度かありました。
あまり行きたいと思える職場では無かったので、断っていました。

そんなことが何回かあったある日、父親が「お前は、いつもわしの言うことを聞かんかった」との言葉で始まり、「それは自分やって同じやろ」と言い合いになりました。

その後何を言ったのかは覚えていませんが、何かを投げられ、顏に当たったことで、今まで抑えていたものが消えていました。
我を忘れて、父親と揉み合いになり、母親が「やめなさい」と言った言葉が聞こえて、気づけば父親を投げ倒し、馬乗りになって、何か怒鳴りつけている私がいました。

お互いに謝ることもせず、何事もなかったかのように過ごしていました。
そんな就職の話しで、また衝突。
今度は、父親から先に私の顔を叩いたことでスイッチが入り、胸ぐらを掴み、持ち上げていました。
母親が泣きながら何かを言っていたことで、その騒ぎは終わったのです。
それを最後に、父親との接近はさけ、黙って風呂に行き、食事をするようになりました。

デスクに手紙を残し、そのまま退職

そうこうする内に、ハローワークで気になる企業の募集が有ったのですが、カウンターの人に話すことができず、そのファイルに入っていたコピーを持ち帰り、直接会社に電話連絡をして、面接を受けました。
そして薬品会社に就職しました。

先ずは家庭の常備薬の点検、補充の業務を仰せ付けられたのですが、入社2ヶ月でノルマ以上をこなすことが出きました。
元居た職員さんよりも売り上げが出てしまったので、意欲が無くなり、退職しました。

その後、専門学校で取った資格が使えると、会計事務所へ就職しました。
課が二つに分かれており、女性の課長と女性の事務員の課に配属され、その女性の事務員さんから、その席は誰が来ても辞めてしまうと言われました。

数日が過ぎ、その上司は、プライドが高く、女性として見てくれないと機嫌が悪くなる方で、仕事をこなすのも大変だったのですが、仕事以外での彼女への対応の方が大変でした。
そこは得意の顔には出さず自分を隠すための笑顔を続けていたのが良かったのか、その上司に気に入られ、月に一回は同じ課の3人で飲みに行くようになっていました。

しかし、自分が嫌な仕事は押し付け、良いとこ取りの行為はエスカレートするばかりで、朝7時に家を出て、帰りは日が変わることも良くありました。
おかげで、一人で企業に行き、監査を行うことができる様にまでになりました。

そんな生活が半年続きました。
その頃から身体に異変が出始め、どんどんと痩せて、気持ちも前向きになれず、それでも作り笑いは続けていたのです。

が遂に、年末の休みに入る日の夕方、みんなが帰った後、所長へ退職届を出し、同僚には、デスクに一言手紙を残し、そのまま退職しました…。

私の部屋に来ることはありませんでした

仕事に行っていないという近所の目から逃れるために、自分のいる家は玄関や窓すべての雨戸を閉め、自分の殻に閉じこもる生活にいつの日からか、なっていました。
そこからひきこもる生活が始まりました。

お風呂や食事は、朝、両親が仕事に出ている隙に実家で済ませてから、道を挟んだ自分の家に帰り寝て過ごしていました。
日が沈む頃に起きて外出して、立ち読みに行き、ビデオレンタルを借りてきていました。
帰宅すると、借りたビデオを見ながら、朝までビールを飲んだりしていました。

当時はネット環境もなく、テレビ、ビデオ、雑誌、漫画で時間を費やしてしました。
そんな生活をしていても、両親から何も言われることもなく、私がいる家に来ることもありませんでした。
しかし、食事と風呂の為に実家に行くと、前日までの衣類は洗濯されていて、たたんで衣装ケースに入れてくれていました。
冷蔵庫には食材も入っていました。

数か月の間、その様な生活の最中、ある日から体調を崩し、発熱が続きます。
実家に置いてある常備薬を飲んでも効かず、病気を知られたくないので、病院へも行こうともせず、数日間寝込んでしまったのです。
それでも私は、誰に助けを求めることも出来ずに、過ごしていました。

少しずつ体調も戻ってきて、ある日の昼前、久しぶりに家の外に出たのです。
空は思いきり青く、太陽が痛く感じ、いつも見ていた周りの街並みは、何故か広く見えていました。

しばらく家の前に居ると、目の前を横切る人が、何人か通り過ぎました。
誰ひとり私に気付くことはなく通り過ぎて行きました。

ふと、誰にも気づかれない、気にもされていない自分という存在は、何の役にも、誰の役にもたってないという現実がありました。
虚しさと切なさの気持ちが、自分の中からこみ上げてくるのでした。

もしかしたら、このまま、自分がどうにかなっていても気づかれることなく、朽ちてしまった後に発見されていてもおかしくない。と思いました。

ひきこもる前までは、お両親は勿論、周りの方たちにも、口では大きなことを言って、出来ないことは、嫌いだからしない、そんなことをしても無駄だと言って、出来ない自分を隠していました。

それは自分が、ただただ言い訳をしていたということにも気づかされました。

別の捕らえ方をすれば、相手にされているからこそ、抵抗も出来、好き勝手なことも云えたのではないかと、今では思います。

それからは意を決っして、就活を再開し、農業団体へ3年、福祉施設へ1年、福祉団体へ就職し、現在に至っています。
行政区の合併がありましたが、今のところ何とかやっています。

いろんな見方からの話が続く

当時、職員の「F」さん宅の近所に「ひきこもり」の方がいて、その支援や対応を話し合っていました。

その「F」さんの元同僚に、フリースクールを主催している方がいるとの紹介で、2006年(平18)風月庵主催のシンポジュウムに参加したのが、かぜさんとの出会いでした。

お二人が、対応策を話し合っている横で、ひきこもり経験がある私は、自分に対して、問いかけをしている様でもありました。

気づかないだけで、ひきこもっている人や、その状態を、どうにかしようと思い悩んでいる家族が居る現実に、何かできることがないのかと、考えていました。

2008年(平20)5月25日、子育て支援事業の一環として、年6回の開催としての勉強会がスタートしました。

この頃の勉強会には、当事者の方々、また支援される方々が、多く参加して頂いていた時期でもあり、今後、様々な方々が参加して頂けるきっかけとなった年でもあります。
風月庵へ通っていた方の卒業発表会の場としても活用いただきました。

2017年1月には100回を迎え、記念すべき回となったことを覚えています。
振り返れば、もう10年以上が経つのかと、時の流れの速さを痛感するばかりです。

この勉強会のいいところは、参加するのも自由で、休むのも自由であり、行きたい時に来て、参加できるところだと思います。
それは、かぜさんをはじめ参加いただいている方々の雰囲気が、そうさせてくれているのではないでしょうか。

参加される方は、当事者の方、家族の方、支援しようとしている方、それぞれに、それぞれの気持ち(想い)があり、その想いを、この勉強会では話すことができます。

そのお話の中から出てくる課題について、その時の参加者で共有をしながら、いろんな見方からの話が続くことで、飽きることなく、長年続けることができたと思います。

今までご参加頂いた方々に、本当に感謝の意を伝えたいと思います。