ひきこもり体験談.1

ひきこもりからフリースクールを

反抗期人生航海に難破しつつ、自己流で何とか泳ぎ続けて

一人ぼんやりと眺めていた

そもそも「ひきこもり」とは何か? について私自身を振り返ってみます。

私は大学時代の1年間、下宿やアパートにひきこもり、外出を控える生活をしていました。

はっきり「ひきこもり」時代と言えるのは、その1年だけと考えていました。
それが、風月庵の活動途中からは、幼い頃から「ひきこもり」特性を持っていたと考える様になってきました。

母から聞いた幼児期の思い出話や、10歳代の自らの言動を思い返す時に、明らかな「ひきこもり」特性を見つけるのです。

小学校時代は、友達が居なくて、妹の面倒をみながら弟と遊んでいました。
我が家にテレビがやって来た小3の時から、テレビの前で過ごすことが多くなりました。

学校では、運動場で遊ぶ友達の姿を、校舎の中から一人ぼんやりと眺めていました。

中学になってから、近所の年下女子・男子とやんちゃなこと、「基地遊び」もしました。

学校での一斉授業が嫌で、つまらなくて、独自プログラムでの自主授業を、近所の神社内で1日中していたのを覚えています。

中3の時には、同級生と自宅でグループ学習会をしていたら、遊んでいると思われ、担任に指導を受けました。

評価を短時間で得られる手法

中学の後半から高校にかけては、自己主張が除々に進み、目立つことも始めました。

高2ではクラス討論会を開き、弁論部に似た「話術研究会」なる、初の同好会を作って活動しました。
生徒会の副会長になり、今までにない生徒会活動を展開して、生徒指導室のブラックリストに載っていたそうです。

常に主催者側で活動し、新たに挑戦すると夢中になることで、他者からの評価を短時間で得られる手法をとっていました。

20~30歳代にかけては、社会の中で色んな試行錯誤を自分なりに挑戦してきました。

大学退学は、自分で決めました。
しかし落胆した親を見て、申し訳ない気持ちもあり、昼は酒屋の配達(初バイト)、夜はウエイター(家業手伝い?)を、1年程しました。

3度目の家出と自殺未遂

女性問題を理由に家を出て、友人の経営する写真館に勤務し、1年で辞めました。

帰徳後、写真屋を自営するも、1年後突如家出をし、友人の下宿を点々としました。

東京の喫茶店で勤めるも1年で退社。
父親が経営するキャバレーに勤務するも、1年で家出し、山陽・北九州を彷徨いました。

帰徳し、ハンバーガーショップのチェーン展開をする本部責任者で1年勤務し、ハンバーガーショップを経営します。
これは3年続きましたね。

閉店して精神病院に勤務しながらボランティア活動を始めます。
1年後に退職し、ボランティア団体「45えんプロダクション」を立ち上げ、車椅子や障害者の自立支援活動を始めます。

活動を通じて出会ったある女性と電撃的に1回目の結婚をします。
その前後は生活のために、早朝から午前中のバイトをしながら活動を続けました。
そして、妻子を実家に残し3度目の家出となります。

この時代は、業界紙の記者や長距離運転手を1年して帰徳します。
結婚生活のやり直しを図るが、2年後、自殺未遂をしたことから、離婚となりました。

誰もが反対したから、出来た

悩んだ末に大阪の友人を頼り、子ども二人との生活を始めたのが33歳でした。

ココに記載していないバイトを含めると、30以上の職業を転々としてきたと思います。
その度に引越しもしました。

大阪に行く時も、知人から1,5tのトラックを借り、その1台分が家財道具一式でした。
2階建て6軒長屋、1階奥の部屋(2K)で、すぐ前に保育所があり、ここから始まります。
隣のお爺ちゃん、近所のお婆ちゃん、そのお婆ちゃん所有のアパートに住む家族(子ども同士が同い年)には色々お世話になり、甘えもさせてもらいました。

他人に頼ること、訳もなく頭を下げることも、見知らぬ地で子を育てることで、初めて素直に出来るようになっていったのです。
偏屈な自分を柔らかくさせることが出来たのは、自分が決心したからだと思います。

親が反対したら、家出を繰り返した私が、親を説得してやり始めた、一人で子どもを育てるこの生活は、誰もが反対しました。

責任感がない。根性がない。長続きしない。我慢が足りない。と親に言われ続け、自分でも人並み以下と思っていた私が、とてもやり通せるとは、両親も、友人も、別れた妻も、自分も思ってはいなかったと思うのです。

しかし人が出来ないと思うことを「ひきこもり」がゆえに、出来ることがあることが、人生の不思議なのです。

自信にはなりえなかった経験

子ども時代、素直で優しいお兄ちゃんを生きていた私は、中学・高校と少しずつ自己主張をするようになり、親の期待を真っ向から裏切る自主退学をすることで、やっと自分の生き方を始めたといえます。
しかし、そんな自分の生き方を実践する程の能力は、持ち合わせていないのです。

一生懸命やるにはやるが、頭でまず結論を出し、他人のことを原因にし、自分の未熟を認めず、転職・転居を繰り返していました。

自分の行き方や方向を、もがきながら探していたのでしょう。
これだけ沢山の経験も、自分を傷つけたが、自信にはなりえなかったのです。

大阪時代1「人間コンピューター」の異名が、1週間の入院を招いた

大失敗しても、辞められなかった経験が

引越し後の大阪暮らし、親子3人の暮らしぶりから始めます。

それまでの私は、[働くことが辛い]と思い、[生きることは悲しい]と、ずっと悩み苦しんできました。
そして、こんな私に育てた両親を、恨んでいたと思うのです。

母や父の元で育てたなら、子ども達も自分と同じ様になるから、この連鎖を避けなければと、強い気持ちがありました。

ですから、大阪に引越さなければならなかったのは、自分のこの苦労を、我が子にはさせたくないという一念だったのです。
そんな風に両親の子育てに、大きな疑問と反発を感じていました。

結婚する時の親との約束があり、実家で暮らしていましたが、離婚したからには [もう徳島の実家で暮らす義務はない] と心に決め、県外での生活を模索していたのでした。

34歳の誕生日に大阪の借家で、心細くもあるが、密かな決心を肝に銘じながら、あの大阪での生活が始まりました。

生活は苦しかったが一生懸命であった私は今では考えられない5時に起きて、24時に眠るという生活を繰り返していました。

我が家の[お帰り電話]

朝起きると、まず洗濯をして、干して、朝の準備と朝食を用意したら、7時には子ども達を起こし、近所の散歩に出かけました。
帰宅後に朝食を食べ、後片付けをし、家を出て、子どもを隣の保育所に預けて、隣町の箕面市の職場に通っていたのでした。

17時定時退社の職場でしたので、帰路自然食のスーパーに寄り食材を買い、帰宅後は洗濯物を取り入れ、夕食の支度をしました。
食後片付けると、歩いて10分程の銭湯に通いました。
そこのお婆ちゃんにも子ども達はお世話になりました。

帰宅後、子ども達と一日の話をしながら、床につき、子ども達を寝かしつけます。
当時から我が家にテレビを観る時間はなかったのです。
子ども達が寝静まってから、日誌を書き、家計簿をつけて洗濯の用意をして寝ました。

一人で子育てをしていた我が家ではいくつかのルールがありました。

その一つが、子どもが学校から帰宅すると、「ただいま!」と職場への電話をします。
「お父さん、お願いします。」と、職場に電話が入ってきます。
すると女性事務員が私の部署に回して下さり、「おかえり!」の一言を私が返します。
それは慣例となり、 我が家の[お帰り電話]は全社員40人が知ることとなりました。

職場にも慣れ始めた9月頃に、会社主催の新人歓迎食事会がありました。

失敗を許せる自分

2次会3次会と回った私は、朝気付くと同僚のアパートのベランダで目覚めました。

この頃、自分で自分を制する生活を維持する為に完全菜食をし、アルコールは一切飲んではいなかったのです。
私の2回目にして最後の3日酔いの経験で、一度職場には行きましたが、周りの同僚に、帰らされてしまいました。

3次会は会社の近くのスナックだったそうですが、私はまったく覚えていません。
隣の席のちょっと危ない系のお兄さんに絡み、怖くて誰も止められなかったそうです。
その席で、バーボンをいただき、同僚はひやひやしながら、出る時を見計らっていたのですが、私がその席を離れずに気をもんでいたと聞きました。

今までの私でしたら、こんな醜態をさらけ出したなら、会社を辞めていたでしょう。

しかし、子どもたちとの生活を続ける為に、そうそう転職も出来ず、会社を辞める訳にはいかなかったのです。
また、きっちり定時で帰れる会社は当時ではあまりなかったのです。

そんな大失敗をしても、社会は許してくれると実感できた大きな体験となりました。
今では懐かしい思い出です。

そんな失敗の積み上げがあってこそ、 「失敗を許せる」今の私があるのかもしれないと、思えるようになりました。

生まれて初めて7年間

そこでは倉庫係として勤務していました。在庫管理の手腕を評価して下さり、加工発注・出荷受注を含む在庫管理を任されました。
これをコンピューター管理するという新提案に、システムエンジニアさんと悪戦苦闘しました。

その頃は、そのコンピューター在庫一覧を毎朝印刷して、営業マンに配布していましたが、100種に及ぶ生地の動向を全て把握していました。
正に人間コンピューターの異名をもっていました。

丁度、その頃だったのでしょう。
夜中、突然の嘔吐下痢症で目を覚まし、明け方迄のた打ち回り、朝子どもを送り出して、救急車を呼び、1週間入院したのでした。

今思えば過労以外の何ものでもありません。
やはり人間関係に行き詰った私は、妹が亡くなったことを理由にして、子ども達を強引に転校させ、徳島に帰ることになります。

この時代の給料が私の人生で一番高額であったことから、当時の給料明細は、思い出の品として長く机の奥に眠っていました。
仕事も、住まいも、転々としてきた私が、一週間の緊急入院はあったものの、7年間、同じ職場・同じ住居で生活したのは、高校卒業以来初めてであり、本当に驚きでした。

周りから見て、どんなに円満で良好な関係でも、甘え、頼ればいいものを、私から切るしかないと信じ切ってしまうのです。
そこが、家族の中でも、いろんな社会の中でも、私が、その場で居場所を作ることが出来ない問題があったのです。

暗黒時代親元での生活が過酷で、
逃げ出すしかなかった!

生活の余裕を奪ってきた

さて、両親との同居と今後の夢を抱いて、徳島での再出発のつもりでした。
仕事は夢を描いていた絵本の販売と、収入補填に魚市場での出荷手伝い業務でした。

子どもの年齢に応じた絵本のセット販売です。自分の絵本への思い入れが強く、セット販売というスタイルに疑問を持ちつつ、各家庭や県内一円の幼稚園・小学・中学・高校の職員室を回って、営業していました。

毎月の売り上げに苦しむ日々が続き、「何故、売れないのだろう?  自分の説明が弱いのか? 甘いのか?」ノイローゼ気味になり、自宅で寝込んでしまいました。

あまりの情けない姿を目の当たりにした息子から、「僕が働けるようになったら、お父さんは働かなくていいよ。でも、それまでは頑張って。」と、慰めてもらいました。

この時、息子は信じられないようないじめを受けて、不登校になりかけていました。
後日判明するいじめの内容に驚愕としましたが、その時は息子のことまで、見る余裕も無かったのでした。

会話が出きると信じていた

私は営業と言う業務が、私に向いていないことを、思い知らされたのでした。

中学時代の応援団長→高校時代の生徒会副会長・同好会の会長→友人との激論→ボランティア活動でリーダー→会社での会議発言や電話対応と、人並み以上にコミュニケーション力を持ち、会話が出きる様になったと信じていました。
ましてや大阪の営業事務時代は、充分に能力を発揮できていたと信じていましたから、自分の能力を全面否定された絶望感でした。

今思えば、人間関係に基本的な信頼を持っていなかった私が(当時は気づいていなかった)、人の心をひきつける会話術など身につく筈も無かったのです。

やはり、徳島の地、親元での生活が私には過酷で、続けることが難しかったのです。
この頃は気持ちに余裕も無く、息子と手を取り合って、現実逃避したのでした。

20歳で大学生活のつまずきと逃避、徳島に帰り戸惑い続けた不安定な20代、結婚とボランティア活動に出会い、燃焼しすぎて、燃え尽き症候群になった絶望の33歳、自分の人生を歩むつもりで挑んだ大阪子育て1期時代は、精神的に限界を実感しました。

この営業マン時代の生活をを経験し、もう2度と徳島での生活出来ないと悟りました。
再び大阪子育て2期生活が始まりましたが、スーパーの倉庫係は、1年前の収入の半分しかありませんでした。

いつの時も、再就職は直ぐできましたが、収入はいつも元の金額に戻り、その都度生活のやりくりをしなければなりません。
それでも、この時代を生き延びてこられたのは、子育てという支えがあったからです。

結局、私は世間でいうところの人並みの生活は出来なくて、自分勝手に一生懸命な生き方に捉われ、周りの生活の余裕を、子ども達の幸せな生活を、奪ってきた様に思われてなりません。

大阪時代2再離婚へのカウント
ダウンが始まっていた

阪神淡路大震災の直撃

再び息子と二人での大阪生活の就職先は、隣町のスーパーマーケットの倉庫係でした。
几帳面さが功を奏して、6ヵ月後には塩干部門の責任者になり、靴松の部門売り上げ数字に、悩まされます。

同じ職場で知り合った女性と再婚します。
徳島に居た娘を呼び、相手の女性も息子2人連れての再婚です。
親二人は有頂天でした。
双方の親族は、思春期に入る子どもを抱えた再婚に、大きな不安を感じていました。

お互いが知らない街:川西市で、家族6人の生活が始まりました。
子ども達もわくわくで、新しい小学校・中学校に通い始め、近所の散歩も自転車で回り、川西市での生活が楽しく始まりました。

我が家の独特な子育てに信頼を置いていた彼女とは対照的に、彼女の親族はそこにこそ心配の種を感じていて、時折その意見がぶつかることで、親族と彼女との溝は大きくなっていったようです。

当然ですが、そんな歪みを現す様に彼女の息子二人に問題行動が続きます。
上の子の不登校、下の子の金銭問題、そのことが又親族から私への非難となります。

私なりに真剣に向かい合い、不登校も自分の力で行けるように、学校に協力を求め、知人の不登校児もつ家族との付き合いから、徐々に自分の意思で学校へ通い始めました。

ある日、机の引き出しにイグアナがいることを発見します。
どうも自分の小遣い+親と友達の親の金も一部拝借して購入したと判明します。
友達宅へ事情を話し、お金は清算し、一緒に謝りました。

我が家は、2階建て借家で狭い。
そんな中、義母との関係に期待していた娘は寂しい思いをしていました。
娘の言動は、学校と家庭では異質的で、差が大きく、気になっていましたが、思春期の反抗と判断し、そのままにしていました。
当時の私には、周りのこと(特に家族)が、何も分っていませんでした。

大部屋一間に、6人で生活

子ども達4人の成長に伴う問題と共に、私たち夫婦も互いの信頼や愛情に不安が見え始めた頃でした。
あの阪神淡路大震災の直撃を受け、わが借家はレッドカードが貼られ、住めなくなりました。

その日の内に、会社(当時勤めていた建材店)と相談し、事業所2階を仮住まいに貸してもらい、軽トラックで引っ越しました。
隅に流しとガスレンジがある大部屋一間に6人での生活の始まりです。

私たち家族にとっては、ここでの短い期間が、生活するうえでは大変でしたが、気持ちを合わせ、協力し合いながら過ごした、最も豊かな2ヶ月間であった様に思われます。

再び池田市で住むことになります。

震災の翌年には、上の子が工業高校の定時制に進学します。
この子のことが心配で、私も同じ高校の定時制建築科に進学(普通科高校は卒業)します。
その事情を知っていた担任は、時折義理の息子のことを何かと知らせてくれました。

「ひきこもり」家族に直面して

ある日、その息子が無断外泊をしたことで、急遽友達関係を当たりました。
すると、同級生に不登校の生徒がいて、自宅にひきこもっているのでした。
その彼を励まそうと友人二人(一人は息子)一緒に、自宅のマンションで3人が生活しているとのことが判明しました。

その時、ご両親は、同市の少し離れた別の狭いアパートで生活されていました。
そこで、親が家を明け渡して、別居している経緯と、今の現状をお聞きしました。

ひきこもりの彼は中学時代から不登校で、教師の父と、専業主婦の母と、県外に暮らす姉との4人家族でした。当時の私は充分な理解もなく、別の友人の親とも相談し、親御さんの意見を尊重して、彼ら3人の生活を見守ることにしました。

当時の私は、「子どもを甘やかしている」とか「自分で生活したいなら、子どもにアパートを借りてやればいいのに?」と思っていましたが、ご両親の辛さが伝わってきて、言葉には出来ませんでした。

3人が住まうマンションの様子は、今でいう[ゴミ屋敷]状態でしたが、その状態を両親が容認していることの方が、私には不思議でした。
しかし、当時(今思うと)大阪府でも先駆的な不登校支援をしている行政区の不登校担当教師として勤務されていたので、尚更私には理解できなかったのでした。

3人が暮らしを楽しんでいたのは、1週間位で、2週間目から友人間で話し合いが出来ず、ストレスが積もり、家主の生徒が県外に住む姉を通して両親に連絡が入り、3人でのひきこもり生活は終わりました。
ひきこもった若者の生活ぶりや様子を伺い、別世界の出来事の様に見ていました。

あかん! 教会は続けて!

それら息子の不登校への対応は、彼女側の親族の更なる不信と苛立ちを、私にむけられることになっていきます。
その追求に、彼女は離婚を受け入れ、改めて自分一人で、子育てをやり直す決心をするに至ったのでした。

当時、我が家の娘は、高校衛生看護科の3年間で、山奥での寮生活でした。
息子は高校ビュジアルデザイン科に入学し、自宅から通うが、生活は全て私とは別々で、自活していました。

我が家は中学卒業したら、自分で生活し、在学中は、両親から各2万の仕送りで、学生生活を自活する約束をしていました。

本来の私流子育てが続き、娘は高校→看護専門学校と5年間寮生活で、その約束を守り、息子は自分で朝晩は勿論のこと、昼は弁当を彼女の分と二人分作り、自活していました。

この離婚がキッカケで、友人の通う教会に私も通うことになり、そこで洗礼を受け、クリスチャンになるのですが、この頃、私は少しずつ変わっていったようです。

その教会の牧師と折り合いが悪くなり、近くの教会に移ることを考え始めました。
息子に「教会に行くのをやめようと思うんや」と言うと、「あかん!教会は続けて!」と息子からの即答でした。

離婚後、私自身の生き方を問い直す為に教会に通い始めた私は、知らぬ間に、息子には歴然とするほどに、変わっていたところがあったのでしょう。

準備時代申し訳ない!
今月でこのフリースクールを閉めます

「カウンセリング体験」と放送大学

「あかん!教会は続けて!」と息子から即答され、息子の言っている真意を当時の私は、まだ理解できないままでした。

ずっと、この言葉が心に残っていました。

私は今までの生き方・考え方を見直すこと、何か大きな価値観の変容を自分で起さなければ、これからの人生駄目になるという危機感、そんな気持ちで教会に通い始め、心惹かれたのが心理学やカウンセリングといった世界です。

あまりご存じないと思いますが、関西の牧師が集い、心理学やカウンセリングの研修を定期的に実践・普及する動きがありました。
それが「関西牧会相談センター」で、私が通っていた教会牧師のF氏は、当会の事務局長をされ、ご自身でも実践を深めておられました。

そのことを知った私は無理を言って、その現場に参加させていただきました。
その体験で大きなショックを受けました。
改めて、心理学の怖さと不思議さに魅了されることになりました。

私は、自分の浅はかさに気づき、少しでも自分の学びを深め様と「放送大学」で心理学の授業を受けるようになります。「放送大学」は、テレビ放送で「映像授業」を受け、単位試験を受けるのが基本です。
放送以外でも、各県に設置の学習センターでVTR(放送と同内容)の貸し出しが可能です。

これとは別に、各大学の講師による、2日で1単位を取得する「面接授業」を受けることも出来ました。
自分が学習したい科目を選択、心理・教育・福祉・哲学・芸術・文化史等、魅力的な科目を次々と選んでいきました。

また、面接授業では、徳島・香川・愛媛・高知・兵庫の各大学の講師による授業を受講でき、多彩な学びを体験することが出来ました。
その中でも京都大学の山中康裕講師による講義は憧れていて、3回受けたと思います。

子ども達は、各々専門学校と高校を卒業、千葉と大阪で就職して、私はその後の人生に向けて、大阪でのフリースクール開校を夢見て準備を始めていたのです。

それなら泊るしかない

ある日知り合った友人とフリースクールを大阪で始める話が出ていました。
そこで、関西一円のフリースクール巡りを始めていました。
その春の退職を期に、その延長でスリースクールや癒しの場・支援施設・絵本美術館を巡る、全国一周の旅に出ました。

7ヶ月にわたり、行ったり来たりしながら、70箇所を巡り、16,000kmをスクーターで走りきりました。

徳島ナンバーの古いスクーターが、バタバタといわせながら訪ねて行きます。
「よく来たね」と労をねぎらって、夕食に誘ってくださいます。
まあ一杯と酒が注がれて、それなら泊るしかないという運びになるのです。

意気投合した所では、3泊も長居して近場の観光と気に入った漫画を何冊も読破し、毎晩の様に酒と共に語り合っていました。
その場に居て、その施設の代表やスタッフと語り合う中で、利用者とのやり取り、何気なく感じとれる雰囲気、何故その活動を続けているのかという意気込みを、体で感じ取りたかったのです。

大切な「雰囲気作り」

その旅の終わりに誤算が二つありました。
一つは日本一周の旅の後に、一番お気に入りのフリースクール決め、そこで一年間位は、体験スタッフをお願いするつもりでいました。

それは大阪にある老舗のフリースクールでしたが、私が2回目、旅の終わりに訪ねていくと、その代表は静かに、「林さん、申し訳ない。今月でこのフリースクールを閉めるんです。」とおっしゃられたのでした。

もう一つは、一緒にフリースクールをしようと語り合っていた友人が、犬の散歩中に、断崖から落ちて即死されたことでした。

それゆえに、徳島でフリースクールを始めることになったのですが、今振り返ると、全国の沢山の仲間を訪ねたことで、息子からの宿題、教会に行き始めた私の中で変わってきたものが何なのかが、解り始めていたのでした。

今も私が、大切にしているそのこととは、家族の雰囲気作り、スタッフと共に育まれている風月庵の雰囲気作りなのです。